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浦和地方裁判所 平成3年(行ウ)20号 判決 1996年3月18日

原告

山田守男

右訴訟代理人弁護士

上柳敏郎

須納瀬学

玉木一成

小林和恵

桜井和人

吉田聰

伊藤明生

高木太郎

被告

地方公務員災害補償基金埼玉県支部長

土屋義彦

右訴訟代理人弁護士

早川忠孝

河野純子

濱口善紀

関口幸男

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告が原告に対し昭和六二年八月五日付けでした地方公務員災害補償法に基づく公務外認定処分を取り消す。

第二  事案の概要

一  争いのない事実

1  本件災害の発生

山田牧子(昭和二三年一月二日生、以下、「牧子」という。)は、埼玉県立所沢養護学校(以下、「本件養護学校」という。)の教諭であったところ、昭和六一年一〇月三日九時二〇分ころから、本件養護学校に隣接する所沢聖地霊園(以下、「本件霊園」という。)において、同校高等部四組の校外マラソン指導(以下、「本件マラソン指導」という。)中、本件霊園内で急性心不全を発症して倒れ、意識不明となり、同月一三日午後〇時二五分ころ、防衛医科大学校病院で死亡した(以下、「本件災害」という。)。

牧子は、本件マラソン指導において、下肢障害があり速く走ることができない生徒の甲野明子(以下、「明子」という。)と一緒に先に本件養護学校を出発し、本件養護学校の講師である山崎恭敬(以下、「山崎講師」という。)及び残りの生徒八名が遅れて出発した。山崎講師らは本件霊園に向かう途上で牧子と明子を追い越して行ったところ、牧子は明子に「先に行くからあっこはゆっくりおいで」と告げて、明子より先に行き、その後本件災害が発生した。

2  原告は牧子の夫である。牧子は、昭和四五年四月一日から宮城県黒川郡富谷町立富谷中学校教諭として勤務し、昭和四七年四月二日に埼玉県に埼玉県立川越養護学校の講師として臨時採用され、昭和四八年四月一日に同校教諭に採用され、昭和五二年四月から埼玉県和光南養護学校所沢分校(後に、埼玉県立所沢養護学校と改称。)に勤務し、当初中等部を約四年間担当し、その後高等部を担当していた。

3  昭和六一年度における牧子の職務

(一) 学級担任

牧子は、昭和六一年度、大学の新卒者である山崎講師とともに、本件養護学校高等部指導学級四組の担任となった。本件養護学校高等部では、学年単位ではなく、障害の程度に応じてクラスを編成し、これを指導学級と呼称していた。右四組の生徒は全員三年生で、男子五名、女子四名の計九名であった。

(二) その他の職務

牧子は、昭和六一年度、研究部の部長を勤めたほか、校内宿泊学習、修学旅行、現場実習の担当者となった。また、牧子は、校務分掌上の進路指導部の教諭とともに、自分が担当する九名の生徒の進路指導にあたっていた。

4  被災前一か月の牧子の勤務状況

牧子は、昭和六一年九月一〇日から同月一三日まで、本件養護学校の修学旅行に参加した。また、同月二二日ころから、運動会のための指導が本格的に始まり、牧子も、高等部のリレー、男子組体操、女子創作ダンス、障害物競争の練習に参加し、指導した。

5  被告の処分

(一) 原告は、被告に対し、牧子の死亡が公務に起因したものであるとして、地方公務員災害補償法に基づき公務災害の認定を請求したところ、被告は、昭和六二年八月五日付けで本件死亡を公務外災害と決定した(以下、「本件処分」という。)。

(二) 原告は、地方公務員災害補償基金埼玉県支部審査会に対し、同年一〇月五日、本件処分につき審査請求をしたが、同審査会は、平成二年三月一六日、右審査請求を棄却した。

(三) 原告は、同審査会に対し、同年四月一六日、本件処分につき再審査請求をしたが、同審査会は、平成三年七月三日、右再審査請求を棄却し、右裁決書は、同年八月八日に原告に送達された。

二  争点

本件の争点は、本件災害が、地方公務員災害補償法に定める公務上の災害に該当するかどうか、すなわち、牧子の本件養護学校における業務と本件災害との間の相当因果関係の存否である。

1  原告の主張

(一) 養護学校教員の職務内容

教員の仕事は、職務の内容が定型的に決まっておらず、その結果、熱心に職務に取り組む教員ほど、時間的にも質的にも過重な職務を担うことになる。

そのうえ、養護学校の教員については、一般の教員と異なり次のような職務の過重原因がある。

(1) 養護学校における生徒指導は、一般学校において教科や一般的生活指導が主になるのと異なり、給食の食べ方、排尿の仕方に始まり、就職先の開拓、就職、施設入所後のケアにまで及ぶ。

すなわち、養護学校教員は、生徒に学校の中で生活のリズムを身につけさせるとともに、生徒が少しでも自立できるように常に生徒に働きかけ、刺激を与え続けることを要求され、一時も気を抜くことができない。そして、大人と同じ或いはそれ以上の体格をもつものの自ら十分に危険を認知できない生徒たちが事故に遭う危険性も高いから、養護学校教員は、常にこのような危険性を意識しながら生徒の指導にあたらなければならない。

(2) 授業の合間の休み時間は、生徒の教室移動に付き添うための時間であり、給食後の休み時間は生徒を遊びの中で指導する時間となる。これは生徒の発達のための指導であり、また生徒だけにしておくのは危険である。このように養護学校教員には休憩時間はほとんどなく、一日中緊張を強いられる。

そして、養護学校では、一般の高校と異なり生徒に自習させることが困難である。そこで、一人の教員の休暇は他の教員の負担となるから、養護学校職員の多くが疲労ないし体の不調を訴えているにもかかわらず、有給休暇等を取得して休養をとることが困難である。

(3) 養護学校教員の職務を過重としている一因は、進路指導、職場開拓の困難性である。就職先を確保するために就職先になる企業と結びつきを作るとともに企業の意識変革を促す必要がある。

また、障害児教育においては、親との緊密な連絡が不可欠であり、親と頻繁に連絡ノートのやりとり等をしなければならない。さらに、障害児が健全に成長するため及び社会人として就職するためには地域の理解が不可欠であり、地域との関係形成の重要性も高い。

(4) 養護学校においては、障害児教育自体がまだ歴史が浅く、また、同一学年であっても生徒間の発達段階の差が大きいことから、各養護学校教員が個々の障害児について、適切な教育方法を考えていかなければならない。このため、日々の教材研究は欠かせず、研修等も不可欠である。

(5) 養護学校の一学級の生徒数は、公立高等学校の設置、適正配置及び教職員定数の標準等に関する法律第一四条によれば、重複障害生徒(文部大臣が定める心身の故障を二以上併せ有する生徒のこと、以下同じ)で学級を編成する場合は三人、重複障害生徒以外の生徒で学級を編成する場合にあっては九人を標準とすると定められていたが、右人数は目標にすぎず、昭和六一年度においては、重複障害生徒で学級を編成する場合は五人、重複障害生徒以外の生徒で学級を編成する場合は一〇人を標準とするのが基準であった。そもそも障害児教育の困難さに照らすと、同法に定められている右基準も決して十分ではない。

(6) 養護学校では、近時教員の定数不足を講師の採用でまかなっているが、講師は正規の教員に比べ経験年数が短く、また、短期採用であることから責任ある仕事を担いにくい。そのうえ、養護学校教員を他の教員と別枠で採用していないので、正職員であっても障害児教育の専門的技量を有しているとは限らない。そのため、障害児教育のベテラン教員が担う職務の割合は、相対的に大きくなっている。

(7) 養護学校においては、複数担任制であるため、指導方針についての協議を重ね、合意形成していくことも大変であり、ストレスの原因となることが多い。

また、複数担任制は、牧子のように経験を積んだ教員が経験の浅い教員を教育する目的もあり、教員に対する教育も熱心であればあるほど負担がかかることになる。

(8) 養護学校教員の多くは、職務が過重な結果として、疲労ないし体の不調を訴えており、障害児学校の教員に腰痛、頸肩腕症、貧血、自律神経失調症、不眠症などが多く見られることが指摘されている。

また、腰痛、けい腕等が養護学校教員の公務上災害と認められた事例も多く発生している。

(二) 牧子の一般的勤務状況

(1) 牧子は、本件養護学校の創設以来のメンバーとしてその中心となり、理論的にも、実戦面でもリーダー的役割を果しており、特に生徒に対する愛情が深く、障害児教育に対する熱意をもって職務に当たり、日頃「勤務時間だけが教師ではない」と述べていた。このような熱意のため、牧子の職務は学校の労働時間内にとどまらず、時間外業務、特に学校外の業務が増大していた。

(2) 学級担任

牧子が昭和六一年度に担任していた高等部四組の生徒は全員三年生であるところ、三年生の担任は、進路指導という最も重大かつ困難な問題があり、そのための職場実習先探しなどの外回りの仕事が加わるから、例年三名以上で行うことになっていた。ところが、牧子は、大学新卒の山崎講師と二人で右四組を担任していた。しかも、講師は教師に比べて力量不足であり、基本的に短期採用であるため長期的に責任をもって行う仕事を担いにくく、そのうえ、進路指導は牧子が全く一人で担当していたのであるから、牧子は、実質的には例年の二人分以上の職務を行っていた。

(3) 校務分掌

牧子は、研究部の部長であったところ、研究部は、校外で行われる研修への参加者の調整、校内研修の実施、紀要の作成に関わる部であって、仕事量も多く、しかも右調整等の際に全職員の意見の一致を図らなければならない等のため精神的負担も多かった。また、牧子は、教育課程検討委員会、全校朝会委員会の委員も担当していた。

(4) 校内行事等

牧子は、校内宿泊学習、修学旅行、現場実習の担当者となり、全てリーダー的役割をはたした。校内宿泊学習は昭和六一年度は六月に高等部の生徒一七名を対象に実施された。これを担当した教員は、牧子ら四名であるが、障害児の宿泊を伴う行事は教員に対しほぼ二四時間連続の緊張を強いる過重な職務である。牧子は、右のような学校の公式行事にとどまらず、生徒を家に呼んで料理教室を開いたり、生徒をボーリングに連れていくなど、生徒への働きかけを実践していた。

(5) 進路指導

本件養護学校には進路指導部があったが、進路指導をよりよく行なうためには、生徒の実態を十分把握している担任がこれを担当するのが最も適切である。牧子は、ベテラン教員であり、就職先捜し等においても進路指導担当以上の力を持ち合わせており、高等部四組の生徒を一年時から持ちあがりで担任しており、思い入れが強かったことから、同組の進路指導はいきおい牧子が一人で背負い込む結果となった。

就職先としては、障害者施設への入所のほか、事業所(会社)への就職があり、進路指導担当者は、本人及び保護者と希望の調整を行う一方で就職の前提となる実習先捜しを行う。牧子は、職業安定所と折衝するほか、求人広告を見て直接作業所と連絡をとったり、あるいは生徒ができそうな職種の事業所に飛び込みで訪問し、受入れを依頼したが、引き受けてくれる確率はかなり低く、しかも一箇所の事業所での引き受け生徒数は、生徒を就職させたいと願えば、一事業所一名とならざるを得なかった。

昭和六一年度には、牧子は実習先を五回も巡回し、しかも一回の巡回に半日をかけることもあった。また、実習終了後も会社を訪問し、生徒についての理解を求めていた。しかし、夏休みに入っても、一人の就職も決まっておらず、牧子は、夏休み中も実習先探しをしていた。

(6) 休憩時間及び休息時間

本件養護学校における休憩時間及び休息時間のうち、午前のものについては、授業の準備や打ち合わせに用いられ、午後のものについては、クラス作業の時間に当て、その後直ちに各種の会議が行われるため、牧子は、実際には、休憩及び休息時間をとれない状況にあった。

(7) 時間外業務

牧子は、帰宅が午後九時又は一〇時ころになる日が平均すると週に一、二度あり、土曜日の帰宅も午後五時ころであった。また、ほぼ毎日、生徒や卒業生の母親、同僚の先生、同業の姉等と電話で連絡しあるいは相談に応じていたが、その時間は、午後九時から一一時、一二時過ぎになった。その後、午前一時あるいは二時まで教材研究や障害児関連の本を読むこともあった。その他にも、自宅で、一か月に二、三回発行する学級通信の作成、日々の教育内容、方法の検討等を行なっていた。また、父母が作っていた「手をつなぐ親の会」の雇用促進施設検討部会などにも出席していた。右会は、民間の任意団体とはいえ、養護学校教員が進路開拓を行うために不可避なものであり、右会への関与はまさに公務というべきである。

(8) 夏休み

牧子は、夏休み中も、障害児に関する研修に熱心に取り組むとともに、生徒の就職先確保に奔走したため、精神的・肉体的休養が十分に取れなかった。

また、牧子は、夏休みも、障害児教育に不可欠な働きかけの一環として、生徒とともにボーリング、水泳大会の応援、夏祭り等に参加した。

(三) 本件災害前一か月の勤務状況等

(1) 修学旅行

同年九月一〇日から、三泊四日で修学旅行が実施されたが、四日間の間、障害を有し肢体の不自由な生徒や判断力の低い生徒を安全に引率することは大変な仕事であった。

旅行前は、短期間に、しおりの作成、親への連絡、生徒の健康チェックなど気を抜けない作業をしなければならず、特に、昭和六一年度は、皮膚病の生徒を参加させるかどうかについて高等部内で議論となったため、牧子はそのことでかなり骨を折っていた。しかも、旅行の直前に、引率責任者であった校長が病気で不参加となったため、本件養護学校の教諭である若山孝之(以下、「若山教諭」という。)が代行の引率責任者とされた。しかし、同教諭は下見にも参加していなかったため、ベテランであり、旅行の計画立案全てに関わり、旅行先の下見も行った企画担当者である牧子が実質的には引率責任者とならざるを得ず、さらに同女の緊張を高めることになった。

女子生徒は七名参加し、引率女子職員は三人であったが、その中の一名の生徒は重度障害児であったため、一人の職員がつきっきりで介護せざるを得ず、結局牧子と養護教諭の二人で六名の生徒を担当する必要があった。

旅行第一日目に海岸で散歩した際は、海に入ろうとする生徒に対して注意を払う必要があり、また足の不自由な生徒は砂上では不自由なこともあるため、その介護にあたるという配慮も必要であった。

障害児を引率する修学旅行では、深夜でも介護が必要な場合があり、ほとんど睡眠がとれない。牧子は、三晩連続で、午前〇時、午前四時に生徒を起こし手洗いに連れていくことを担当していたが、生徒は手洗いに行ってもすぐには排泄せず、時間がかかり、特に旅行二日目には、生徒の一人が失禁してしまい、着替え、汚れたシーツ等の洗濯をしなければならなかった。また、朝は、早起きの生徒が午前五時ころには起きてしまうため、牧子はほとんど満足な睡眠がとれなかった。しかも、毎日午後一〇時ころから約一時間、引率の教諭たちは当日の反省や翌日の日程の確認のためミーティングを行い、牧子は、その後に旅行の様子を伝えるためにニュースの作成まで行い、到着した駅でそのコピーを親に交付した。牧子は、帰宅後も生徒の自宅に電話し、旅行の様子につき詳細な報告をした。このように修学旅行は、牧子の肉体的精神的疲労を異常なまでに蓄積させた。

(2) 進路指導

第二回目の実習が同年一〇月から行なわれるため、牧子は、同年九月に入って右実習の受入先を捜していた。第二回目の実習は具体的な就職を前提としたものであるため、その受入先を捜すことは、第一回目の実習以上の困難を伴った。牧子は、運動会の練習の合間に頻繁に電話で受入先を捜した。また、障害者施設への入所についても、障害の程度の軽重により施設が異なるため、生徒の能力と保護者の希望等を勘案して調整する作業が必要であり、帰宅後も生徒宅に電話をすることが増えた。しかも、牧子はこのような重要な職務を実質的に一人で担当していたが、第一回目の実習で就職先が決まった生徒がおらず、経済的に不況であるため就職が困難であったため、牧子にはあせりが生じ、大きな精神的負担となっていた。

(3) 運動会の準備

運動会は、本件養護学校において年間最大の行事であり、是非とも成功させなければならないものであって、同年九月二二日ころから運動会のための指導が本格的に始まり、学校中が緊張に包まれ、牧子の精神的肉体的疲労も大きかった。

(4) 当時の牧子の疲労状況

牧子は、度々保健室に来所し、同年九月中旬ころには、「夜あまり眠れない。目を閉じると赤や黄色の雨が矢のように刺さってくる」と訴えた。また、牧子は、同年九月から一〇月上旬にかけて、家族や同僚、生徒の父兄に対しても、時間がないとあせった様子やいらいらした様子を見せていた。

(四) 本件災害前一〇日間の勤務及び生活状況

(1) 勤務等の状況

同年九月二四日(水曜日)運動会の練習(午前、午後)、学部・クラス打ち合わせ

同月二五日(木曜日) 運動会の練習(午前)、グループ学習職員会議

同月二六日(金曜日)実習先(大沼段ボール)訪問、打ち合わせ(午前)、運動会の練習

同月二七日(土曜日) 学校にて陶芸(午後)―作業班の関連

同月二八日(日曜日) 次女の運動会応援

同月二九日(月曜日) 運動会の練習(午前、午後)、所沢市内施設職員学習会

同月三〇日(火曜日) 運動会予行演習

同年一〇月一日(水曜日) 運動会の練習、ボンボン作り(午後六時まで)

同月二日(木曜日) 実習先(ハイカー、小林紙工)訪問、全校朝会委員会、自宅で教材研究

(2) 牧子は、死亡前一〇日間は、修学旅行の疲労から回復できない状況の中で、同年一〇月五日に予定されていた運動会の練習に追われていた。また、進路指導についても具体的な実習先捜しのため学外の企業を度々訪問することが必要となり、牧子は、なんとか時間を作って企業訪問を行っていた。

夜は、同年九月二八日は自宅でニュースを作成し、同月三〇日、翌一〇月一日には電話で長時間障害児教育に関し姉や同業者との意見交換をするなど忙しく、また週末も、土曜の午後は陶芸班の関係で茶碗を作ったり、日曜日は子供の運動会で朝から弁当を作ったりし、休息できる日が一日もなかった。

(五) 本件災害直前の状況

本件霊園は、全体で約二六万平方メートルの広さで勾配があり、本件霊園内は曲がりくねった道が通り、脇道も多く、雑木林もあったため、迷いやすく、かつ、生徒が本件霊園から出て行方不明になる危険があった。また、自動車の通行も多いため交通事故等の心配もあった。特に本件死亡当時は本件霊園周辺で工事があり、また、交通の多い時間帯であった。

本件マラソンは、高等部四組の生徒にとっては初めての校外マラソンであり、生徒らは、本件マラソン指導のコースとなった本件霊園内を学校行事で通ったことはなく、また日常の通学路としているわけでもないので、右霊園内の状況に明るくなかった。そして、当日のマラソンに参加した乙川太郎は、中学生時代に行方不明になり、西武線新所沢駅のホームで電車に接触する事故を起こし、また、女子生徒が誘拐されていたずらをされるという事件も起こっていた。しかし、マラソン指導にあたった牧子と山崎講師は、マラソンコースについて、本件霊園内と定めただけで、コースの具体的な打ち合わせをしていなかった。

山崎講師は、本件当日午前九時二〇分に生徒全員を校門に集合させ、準備体操を指導して、マラソン指導を開始した。牧子は、課題用のプリント作りを行っており、右準備体操には参加しなかった。

マラソンでは、まず牧子が、明子とほとんど歩くような速度で出発し、その後山崎講師と生徒八名が出発し、三分後に牧子らを追い抜いた。山崎講師は先頭を走っていったが、八名の生徒は、足の速い生徒と遅い生徒の二グループに分かれ、両グループの差は広がりつつあった。これを見た牧子は、前記のような本件霊園の状況から、後者のグループが道に迷いその結果生徒に事故が起こる危険が大きいと考え、明子に対し「先に行くからゆっくりおいで」と告げて、後者のグループを追うように走りだした。生徒はコースを理解しておらず、いったん道に迷うと学校に戻ることができるとは限らないから、牧子は、不安と、コースの打ち合わせが不十分であったことの自責の念も加わり、大きな精神的負荷を抱えながら、曲がりくねった見通しの悪い道を走った。足の遅い生徒とはいえ高校三年生であるから、小柄な牧子では、それなりの速度で走らなければ追い付くことができない。そのため、牧子は約四四〇メートルの距離を全速力で走り、しかも山崎講師の背丈以上の高低差のある勾配を駆け上がり、このようにして心臓に重大な負担を与える駆出しをした。

そうして、第一発見者である山崎講師が学校に連絡を取りにいっている間、牧子に対して適切な救護体制が採られていない。発見後直ちに心臓マッサージ等ができていれば最悪の結果は回避しえた可能性もある。

(六) 牧子の死因

右のような駆出し行為が心臓に負荷を与えることは明白であるが、ランニングにより不整脈が惹起される頻度は極めて高い。また、不安やストレスは異状な交感神経の緊張を引き起こし、その結果、致死的な心室性不整脈ないし冠動脈攣縮を生じる。このような事態が健常者に起こることは決して稀ではない。

本件災害も、右駆出し行為の際に、牧子の生徒らに事故が生じることへの不安による精神的緊張及び駆出しによる心臓への負担が、従前の疲労蓄積に加功して、牧子に心室性不整脈、期外収縮または冠動脈攣縮が生じ、急性心不全に至ったものである。

(七) 本件災害と公務との因果関係

労働者が予め有していた基礎疾患などの内因が原因となって死亡した場合であっても、業務の遂行が精神的、肉体的に過重負荷となり、右基礎疾患をその自然的経過を超えて増悪させてその死亡時期を早める等、それが基礎疾患と共働原因となって死の結果を招いたと認められる場合には、特段の事情がない限り、右死亡は業務上の死亡であると解するのが相当である。

本件災害時、牧子に、心室性期外収縮、不整脈、スパズム(冠動脈攣縮)のいずれかの既往症があったとしても、その程度は重篤でなく、また、本件災害は、前記のように駆出し行為の際における事故の不安による精神的緊張及び駆出しによる心臓への負担が従前の疲労蓄積に加功して生じたものであるから、本件における公務と本件災害との間に相当因果関係が存することは明らかである。

2  被告の主張

(一)(1) 地方公務員災害補償制度においては、①使用者には、公務に内在する各種の危険性が現実化したときに危険責任が課せられ、故意、過失の有無は無関係であり、②公務と災害との間に事実的因果関係(条件関係)の存在は必要であるが、③補償の範囲は地方公務員災害補償法により定型的・定率的に法定されており、事実的損害の範囲や金銭賠償の範囲を限定するための概念としての相当因果関係は理論的に問題にならない。

このように地方公務員災害補償制度の本質は、業務に内在する各種の危険性が現実化した場合の損失について使用者が無過失責任を負うことにあり、これに要する費用については、地方公共団体の負担金により一切が賄われ、職員は一切保険料等の負担がなく、かつ責任割合による損失負担が求められず、画一的に一〇〇パーセントの決定補償額の支払いを義務付けられている。このような制度の内容・趣旨に照らすと、職員に生じたあらゆる災害について、地方公共団体に全責任を負わせることはできないところであって、公務の遂行に際して発生した災害のうち、その責任を使用者である地方公共団体に帰すべきかどうかを、適正かつ客観的に判断することが必要であり、そのために相当因果関係という概念が用いられる。したがって、職員が公務上の災害によって死亡したといい得るのは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合であるところ、これに該当するといい得るためには、右負傷又は疾病と公務との間における相当因果関係が必要である。そして、無数の災害の原因のうち、公務だけに一〇〇パーセントの危険責任を負担させる合理性を担保するためには、客観的に災害を発生させる原因となり得たもののうち、公務以外の要因と公務を比較して、公務の方が相対的に重要な比重を占めていると評価できない限り、公務と疾病との間の相当因果関係はないというべきである(「相対的有力原因」)。また、相当因果関係の判断は、公平な補償を担保するために、当該被災者のみならず、当該職員と同程度の年齢、経験等を有し、日常業務を支障なく遂行できる健康状態にある同僚職員が当該業務を行った場合でも、やはり疾病発生の原因になったと評価しうる普遍的妥当性、客観性が必要である。

(2) 脳・心臓疾患において、脳血管疾患及び虚血性心疾患等は一般に所謂私病が増悪した結果として発症する疾病であり、これらの発症と医学的因果関係が明確にされた特定の公務は認められていない。それ故、職員が日常業務に従事するうえで受ける負荷による影響は、通常その職員の血管病変等の自然経過の範囲にとどまるのであって、例外的に当該公務が精神的又は肉体的に著しい過重負荷を生じるものである場合において、これにより、脳血管疾患または虚血性心疾患等が明らかにその自然的経過を超えて急激に著しく増悪して発症したと認められるときに、公務との間の相当因果関係が肯定されるものである。労働省労働基準局長通達「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」(平成七年二月一日基発第三八号)は、右にいう「脳血管疾患または虚血性心疾患等が明らかにその自然的経過を超えて急激に著しく増悪して発症したと認められる場合」の具体的基準として、発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る「異常な出来事(業務に関連する出来事に限る。)」に遭遇し、または日常業務に比較して「特に過重な」業務に就労したことにより、明らかな「過重負荷」を発症前に受けたことが認められること、過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が、医学上妥当なものであることの二点を挙げている。

災害と公務との間に相当因果関係が存在することの立証責任が認定請求権者側にあることは、災害補償関係の判例上確立したものであり、したがって、本件においても、原告が、牧子の基礎疾患等の有無やその程度を明らかにしたうえで、牧子の疾病等が明らかにその自然経過を超えて発症したと医学的に認められることを立証しなければならない。

(二) 養護学校教員の職務内容及び本件養護学校における勤務体制等

(1) 勤務時間、休憩時間及び休息時間

昭和六一年当時における埼玉県立養護学校教諭の勤務時間は、学校職員の勤務時間、休日、休暇等に関する条例第三条及び学校職員の勤務時間、休日、休暇等に関する規則第二条により、一週間につき四四時間と定められていた。

また、休憩時間及び休息時間については、右条例第四条及び第五条により、一日の勤務時間が六時間を超える場合には四五分の休憩時間をおかなければならず、さらに四時間につき一五分の休息時間をおくものとされている。

(2) 休業日

ア 埼玉県における県立養護学校の休業日については、埼玉県立盲学校・ろう学校・養護学校管理規則第一二条第二項が準用する埼玉県立高等学校通則第七条により、次の日が休業日とされている。

国民の祝日に関する法律に規定する休日

日曜日

県民の日を定める条例に規定する日(一一月一四日)

開校記念日

春季休業日(四月一日から同月七日まで)

夏季休業日(七月二五日から八月三一日まで)

冬季休業日(一二月二五日から一月七日まで)

学年末休業日(三月二九日から同月三一日まで)

以上のほか、校長が教育上特に必要と認め、委員会の承認を受けた日

イ さらに、本件養護学校においては、右通則第七条第九号に基づき、七月二一日から同月二四日まで及び三月二五日から同月二八日までを臨時休業日としていたから、結局次の期間は生徒が学校に登校することはほとんどない。

三月二五日から四月七日まで

七月二一日から八月三一日まで

一二月二五日から一月七日まで

そして、教育職員は、これら長期休業日に、右条例附則第六条及び学校職員の勤務を要しない時間の指定に関する規則第四条により、いわゆる四週五休制による指定休(土曜日)をまとめて取得することになっており、また、教育公務員特例法第二〇条第二項により所謂自宅研修が認められていることから、これらの長期休業期間に養護学校教員が実際に学校に出勤することは極めて少い。

ウ 有給休暇についても、牧子の年次休暇取得の実績からすれば、ベテラン教員が有給休暇を取得することが困難とはいえない。

(3) 学級編成及び教員の定数

公立の特殊教育諸学校の高等部の一学級の生徒数は、公立高等学校の設置、適正配置及び教職員定数の標準等に関する法律第一四条により、重複障害生徒で学級を編成する場合は三人、重複障害生徒以外の生徒で学級を編成する場合にあっては九人を標準とすると定められており、学級編成のうえで教員の負担の軽減が図られている。教員の定数についても、同法第七章により、特殊教育諸学校の高等部の教職員の定数には特別の配慮がなされており、また、複数担任制が採用されている。

この結果、埼玉県下における昭和六一年度の教員一人当たりの児童生徒数は、高等学校においては21.3人であるのに対し、盲・ろう・養護学校においては2.4人であり、そこに勤務する教員の負担の軽減が図られている。

(4) 養護学校教諭の職務は、障害児を対象とする特殊性はあるものの、授業そのものは易しい内容で、陶芸指導のような楽しいものも多い。また、普通の高等学校のように生徒の非行問題に悩まされたり、厳しい進学競争に晒されることもなく、従順で素直な生徒が多く、生徒や父兄との軋轢も比較的少ない。したがって、精神的ストレスは、普通の高等学校の教諭よりむしろ少ない面も多いといえる。

(三) 牧子の本件養護学校における具体的勤務状況

(1) 学級担任

本件養護学校は、生徒の障害に応じて一般学級と重度学級に分けていたが、高等部四組は一般学級の高校三年生であったため生徒の障害の程度はさほど重くなく、いずれの生徒も身の回りのことは自分でできた。また、牧子は、同組の生徒を一年生から持ち上がりで指導してきたから、生徒の能力の程度及び性格等については、十分に把握していた。

前記のように、右組の生徒数は九名であったところ、中程度の障害児童九名に対して担任二名であることは、ごく一般的な人員配置であり、本件養護学校においても、過去の卒業年度の学級担任数は、昭和五八年度は、生徒六名につき担任一名、昭和五九年度は、生徒九名につき担任二名であり、昭和六一年度において三年生の担任が二名というのは決して特殊事態ではない。

山崎講師は、教員の免許を有しており、教育公務員特例法に基づく教員定員との関係で臨時的任用の講師として採用され、本件養護学校に勤務していたにすぎない。したがって、教諭であるか講師であるかは任用形態の違いにすぎない。また、山崎講師が四組の担当となったのも、生徒の質に鑑み新任講師を配属しても十分クラス運営が可能であったからである。

(2) 授業時間及び授業内容

ア 本件養護学校高等部における一週間の授業時間数は、一単位時間五〇分を標準として三八時間とされていたが、このうち、日常生活学習が八単位時間、生活単元学習と作業学習が六単位時間、特別活動が四単位時間、学校裁量時間が二単位時間とされており、国語、算数等の通常の授業時間は普通の高等学校と比較すると著しく少なくなっている。そして、課題別学習及び作業学習については、クラス全員で行うことなく、グループごとに分けて指導していた。牧子は、課題別学習については、担当生徒九名の中で言葉を理解できる三名の生徒に対する指導を担当しており、国語、算数を中心として、国語は漢字の書き取り及び辞書のひき方を、算数は四則計算を教えていた。また、作業学習については、陶芸班を担当し、機械ろくろによる湯飲みを作り、たたら成型による小皿作り、電動ろくろ成型の実技指導を行っていた。

イ 牧子の勤務時間

本件養護学校の昭和六一年度における勤務時間は、月曜日から金曜日までは午前八時三〇分から午後五時一五分まで、土曜日は午前八時三〇分から午前一二時三〇分までであり、休憩時間は、スクールバスの出発後に定められ、月曜日から木曜日までは午後二時三五分から午後三時二〇分(水曜日は高等部の一部については午後二時三〇分から午後三時一五分)まで、金曜日は午後二時三〇分から午後三時一五分又は午後三時三〇分から午後四時一五分までとされ、休息時間は、月曜日から金曜日までは午前八時五〇分から午前九時五分まで及び午後四時一五分から午後四時三〇分まで、土曜日が午前八時五〇分から午前九時五分までであった。

(3) 牧子の帰宅後の状況

牧子は普段午後五時半から六時ころに帰宅し、通常は概ね午後一一時から一二時ころに就寝し、翌朝七時ころに起床するという健康的な生活を送っていた。

原告は、牧子が時間外公務活動に追われていた旨主張するが、同僚との学習会はそれが公務であるのか私的集まりであるのか不明であるし、手をつなぐ親の会の会合は私的な会合であるから公務上認定の資料とすることはできない。また、学級通信は、二週間から一か月半程度の間隔で発行していたこともあり、また、山崎講師が作成したり単に生徒が書いたものを綴ったもののときもあるため、学級通信の作成が牧子に特に負担になったとは考えられない。また、同僚や生徒の母親との電話についても同僚職員としての世間話等も含まれ、公務というには程遠いものである。

ちなみに、家庭における日常家事は、朝食の用意、その後片付け、夕食の用意は同居していた牧子の母が行い、牧子は、掃除や洗濯物の整頓、夕食の後片付け程度を原告と分担して行っていたにすぎない。また、牧子の子は、小学校三年生と中学校一年生であり、手はかからなかった。このように、牧子は働く女性としては極めて恵まれた立場にあり、陶芸、短歌及び山登りなどの趣味をもち、短歌の同人誌に投稿したり、自宅で趣味に関する本を読んだり、二、三か月に一回程度は家族で登山に行くなど、充実した家庭生活を送っていた。

(4) 牧子の昭和六一年四月ないし七月の勤務状況

牧子は、昭和六一年四月から七月までの間に次のとおり年次休暇を取得しており、また春休み及びゴールデンウィークというまとまった休みもあったのであるから、この間に勤務によって疲労が蓄積されたとは到底考えられない。

四月 四日(一日)、八日(五時間)、一二日(一時間)、二二日(三時間)

五月 二三日(一時間)、二八日(一時間)

六月 一一日(四時間)、一八日(二時間)、三〇日(二時間)

七月 七日(四時間)、九日(二時間)、一五日(二時間)

(5) 昭和六一年度の夏休みの勤務状況

本件養護学校の休業日は、前記(二)(2)のとおり定められており、昭和六一年度の夏季休業日は、臨時休業日を併せて七月二一日から八月三一日までであった。右期間のうち生徒が学校に登校したのは七月二二日から同月二六日まで及び八月一九日から同月二二日までの計九日間にすぎなかった。また、牧子は、右夏季休業日に左記のとおり、研修日、夏季休暇、指定休、職務免除を取得しており、実際に学校に出勤した日(出張した日を含む)はわずか一三日(土曜日一日を含む)にすぎなかった。なお、牧子は、八月二五日及び二六日には家族で尾瀬に行ったが、出勤簿には出勤印及び研修印が押捺されており、教員一般において研修日を休暇と同様に過ごしている実態も窺われる。

研修日 七月二三日、二五日、二六日(土曜日)、八月二日(土曜日)、八日、一四日ないし一六日(土曜日)、二三日(土曜日)、二六日、二八日及び二九日

夏期休暇 八月一一日ないし一三日

指定休 七月二九日ないし三一日、八月四日ないし六日及び九日(土曜日)

職務免除 八月一九日

以上のとおり、牧子は、昭和六一年度の夏休みには、十分な休暇等を取得し、この期間の公務は著しく軽減されていた。なお、牧子が、七月二六日にボーリングに、同月二七日に学校の夏祭りに、八月八日に親の会の雇用促進の会に行ったとしても、これらはいずれも公務に当たることについては疑問があるから、勤務の過重性を判断するための資料として取り上げることはできない。

(6) 修学旅行

修学旅行は、牧子が地理に詳しく、また牧子にとっては四回目となる、仙台への旅行であった。日程も毎日ほぼ午後四時ころには宿に到着するように組まれており、十分ゆとりがあった。ところで、修学旅行には校長が欠席することになったが、修学旅行の引率教諭は、もともと定員より一名増員されていたから、校長の欠席により定員どおりになったにすぎず、また、校長に代わって引率責任者になったのは若山教諭であるから、校長の欠席によって牧子の負担が特に増大したものではない。

修学旅行において牧子が担当した生徒四名は、障害の程度はそれほど重くなく、修学旅行は特にトラブルもなく実施された。また、牧子と多田教諭が夜中に起こさなければならなかった生徒は一名だけであったから、牧子が旅行中睡眠がとれなかったわけではない。

右修学旅行は長期の夏休み明けに行われたから、旅行前には牧子に疲労の蓄積は全くなく、また、旅行後の九月一四、一五日は連休で、牧子は同月一八日にも年休をとっているため休養を十分に取れた。

(7) 就職活動

例年の就職者数は二名から四名ほどであり、牧子が倒れた後、若山教諭が高等部四組を引き継いだ時点で、就職先の決まっている生徒はいなかった。例年秋の実習で就職先が決まることが多いから、実際の就職活動の主要な部分は若山教諭が行って生徒の就職先を決めたものである。

(8) 本件災害前一週間の勤務状況

昭和六一年九月二七日から一〇月三日までの牧子の勤務状況は左記のとおりであって、普段と異ならない。

九月二七日は、土曜日であり、クラス作業(弁当)は午後一二時三〇分ころ終了している。

同月二八日は、公務を行っていない。

同月二九日は、午前中は鼓笛の指導等を、午後はダンスの指導等を行い、勤務は何ら過重でない。生徒は午後三時に下校し、牧子は、午後五時一五分まで学部会議に出席した後、帰宅した。

同月三〇日は、午前中だけ運動会の予行練習の指導に当たり、午後はグループ学習の指導を行った。生徒は午後三時に下校し、牧子は、同人誌に掲載する短歌の原稿を届けに行くために午後三時三〇分以降は年次休暇を取得している。

一〇月一日は、午前中はグループ学習の指導等を行い、午後一時から二時までダンスの指導を行ったにすぎない。生徒は午後二時三〇分に下校している。

同月二日は、午前中は、生徒の作業指導等を行い、昼食をはさんで、進路指導のため市内に出張している。午後は、ダンス指導等を行い、生徒は午後三時に下校した。牧子は、その後、午後五時一五分まで校内の全校朝会委員会に出席後帰宅した。

(9) 本件災害当日の状況

ア 牧子は、当日七時に起床し、朝食を取って自転車で登校した。登校後、職員朝会、学部打ち合わせ会を経て、教室に移動し、教材準備を済ませてから、本件マラソン指導の準備運動に途中から参加した。

本件マラソン指導は、初めての校外マラソンではなく、また、高等部三年生のマラソン指導については一学期から指導計画書に基づいて計画的に実施されており、十分な打ち合わせがなされていた。

イ 本件マラソンコースは、生徒が通学、あるいは秩父学園や希望の園に行く時に通っている道路であり、学校から見える距離にあって、走行する車もほとんどなく、それほど勾配の差のない平坦な土地であり、整備された広くて走りやすいものであった。

高等部の生徒は自主通学のできる生徒ばかりであり、ある程度指示すれば独力で学校へ帰る能力を持っており、右のように本件マラソンコースは普段通っている道であるから、本件マラソン指導に参加した生徒らが本件霊園内で迷ったり、本件霊園を出て行方不明になる危険性は全くなく、また交通事故が起こる危険性もなかった。実際にも、当日山崎講師と離れた五名の生徒らは、本件災害後独力で学校に戻っている。

ウ 本件マラソン指導が始まり、後にスタートした山崎講師及び生徒八名が、先にスタートしていた牧子と明子を追い越し、その後、牧子は、明子に対し、「あっこはゆっくりおいで。」と言って、明子を残して先に行った。その時の牧子は普通の感じであり、走る速度も時速約3.5キロメートルにすぎなかった。追い越していった生徒の走る速度は普通の高校生の速度よりも遅く、特にそのうちの五名は、早歩きないし歩き程度の速度しか出せなかった。したがって、牧子が追いかけていった時に右生徒らとの差はさほど開いておらず、牧子は、それほど早く走る必要はなく、右生徒らの様子を見る程度の軽い気持ちで追い掛けだしたものであり、牧子が右生徒らを心配して精神的に過度の負担を負ったことはない。

(四) 牧子が心停止に至った医学的機序について

(1) 牧子は、昭和五一年七月二三日、埼玉西協同病院において、発作性上室性頻拍症、心室性期外収縮と診断され、昭和六一年九月一九日まで断続的に通院治療を受けていた。昭和五八年六月四日には、防衛医科大学校病院においてハートコーダー装着のため受診した際、動悸の発作を起こして救急外来に運ばれ、心室性期外収縮多発のためリドカイン注射をした際意識低下に陥った。その後、牧子は、遅くとも昭和六〇年二月に、冠攣縮性狭心症に罹患しており、本件災害前にはその程度も重い状態であった。

(2) 冠攣縮性狭心症の特徴的病態は、冠状動脈血管の易スパズム(攣縮)性にあり、易スパズム性を持った血管は、正常な血管と比較すると、内因性、外因性の刺激に対して敏感に反応して攣縮を起こす。血管が易スパズム性を獲得する原因としては、軽度の動脈効果、遺伝的影響及び自律神経の過敏性等が考えられるが、先天的素因と後天的要因を比較すれば、先天的素因の方が大きな原因を占める。牧子は、もともと右冠状動脈に易スパズム性を有していたのであり、易スパズム性の獲得について本件公務は何の影響も与えていない。

(3) 牧子は、昭和六〇年一一月から本件死亡の直前まで約一年近くにわたりインデラルの投与を受けていたが、インデラルはスパズムを発生しやすくすることから、右投与により、牧子の冠状動脈スパズムはより起こりやすくなっていた。また、スパズムの発生は、時間的には、夜中から明け方・午前中にかけての時間帯に起こりやすい。牧子は、本件災害当日の午前九時三五分ころ、冠攣縮性狭心症による冠状動脈スパズムが発生し、スパズムが解除された時の心室性期外収縮が発生し、RonT現象の発生、心室頻拍・細動の発生により心停止に至ったものである。

このように、牧子の心停止は、冠攣縮性狭心症を原因とする病死であり、公務の過重性による疲労の蓄積や本件マラソン指導時の肉体的負担及び精神的ストレスに基づくものではない。本件マラソン指導が問題となるのは、精々これが冠状動脈スパズム発生の誘因の一つになったか否かということにすぎず、医学的には、右マラソン指導が、右心停止の相対的有力原因になったとは到底いうことができない。

(4) なお、前記のような本件災害当日の状況からすれば、仮に牧子が小走り程度の速度で四〇〇メートル余りを走ったとしても、この程度の運動量は、日常生活上しばしば経験する程度のものであり、山登り等の運動に日頃から親しんでいた牧子にとってそれほどの肉体的負担ではない。そして、牧子は、養護学校の教諭として一四年以上の経験を有するベテランであったから、本件災害当日のような出来事はそれまでにも数多く経験していた筈であり、仮に生徒が道に迷ったとしても、安全な霊園内であって、生徒に事故が迫っているような具体的危険性は全くなかったのであるから、牧子に事故発生の不安による心理的ストレスが生じたことはない。

第三  争点に対する判断

一  本件養護学校の勤務体制

1  勤務時間、休憩時間及び休息時間、並びに休業日

(一) 昭和六一年度における埼玉県の学校職員の勤務時間は、学校職員の勤務時間、休日、休暇等に関する条例第三条及び学校職員の勤務時間、休日、休暇等に関する規則第二条により、一週間につき四四時間と定められており、また休憩時間及び休息時間については、右条例第四条第二項及び第五条により、一日の勤務時間が六時間を超える場合には四五分、八時間を超える場合には一時間の休憩時間をおくこと、及び勤務時間の中で四時間につき一五分の休息時間を置くことと定められていた。

また埼玉県における県立養護学校の休業日については、埼玉県立盲学校・ろう学校・養護学校管理規則第一二条第二項が準用する埼玉県立高等学校通則第七条により次の日が休業日であった。

国民の祝日に関する法律に規定する休日

日曜日

県民の日を定める条例に規定する日

開校記念日

春季休業日(四月一日から四月七日まで)

夏季休業日(七月二五日から八月三一日まで)

冬季休業日(一二月二五日から一月七日まで)

学年末休業日(三月二九日から三月三一日まで)

右に定めるもののほか校長が教育上特に必要と認め教育委員会の承認を受けた日

そして、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第七八号証並びに弁論の全趣旨によれば、本件養護学校においては、右通則第七条第九号に基づき、七月二一日から同月二四日までを臨時休業日としていたことが認められる。

(二) 原本の存在及び成立に争いのない甲第四〇号証、第四一号証及び成立に争いのない乙第八号証によれば、昭和六一年度における本件養護学校の基本的勤務時間は、平日は午前八時三〇分から午後五時一五分まで、土曜日は午前八時三〇分から午後零時三〇分までであり、休憩時間は月曜日から木曜日までは午後二時三五分から午後三時二〇分(水曜日は高等部の一部については午後三時一五分)まで、金曜日は午後二時三〇分から午後三時一五分まで又は午後三時三〇分から午後四時一五分までであり、休息時間は、午前八時五〇分から午前九時五分まで及び午後四時一五分から午後四時三〇分までであったと認められる。

2  成立に争いがない乙第五号証によれば、公立高等学校の設置、適正配置及び教職員定数の標準等に関する法律第一四条においては、昭和六一年当時、一学級の生徒数は、重複障害生徒で学級を編成する場合は三人、重複障害生徒以外の生徒で学級を編成する場合にあっては九人が標準とされており、また、原本の存在及び成立に争いのない甲第四号証によれば、本件養護学校の過去の卒業学年の学級担任数は、昭和五八年度が一名(生徒六名)、昭和五九年度が二名(生徒九名)、昭和六〇年度は三名(生徒一〇名)であったことが認められる。

二  牧子の担当職務

1  牧子は、昭和六一年度において、前記のように山崎講師とともに本件養護学校の指導学級のうち高等部四組を担任していたところ、前掲乙第八号証、原本の存在及び成立に争いがない甲第五一号証、証人若山の証言により真正に成立したと認められる甲第四四号証、及び証人若山及び同水田の各証言並びに弁論の全趣旨によれば、認可学級の場合は学級内における生徒の障害の程度に大きな開きが生じるため、本件養護学校では、生徒の障害に応じて一般学級と重度学級に分けた指導学級を編成しており、高等部四組は前記のように一般学級であり、山崎講師は、養護学校教員の免許を有しており、牧子と同講師との間において、日頃の職務上特に円滑さが欠けているようなことはなかったことが認められる。

2  前掲甲第四〇及び第四四号証、乙第八号証、原本の存在及び成立に争いがない甲第五〇号証、証人若山の証言により真正に成立したと認められる甲第四五ないし第四七号証、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第五二号証、証人若山、同水田の各証言によれば、牧子の昭和六一年度の通常の一週間の勤務内容は、前記のような基本的勤務時間に則り、概ね別表のとおりであったこと、高等部の生徒達が下校するスクールバスは、月曜日から木曜日までは午後二時三〇分、ただし水曜日は一部については午後一時、金曜日は一部は午後二時三〇分、その他は午後三時三〇分に本件養護学校を出発していたこと、牧子が担当していた高等部四組は前記のように一般学級であって、同組の生徒の障害の程度は重度ではなく、ある程度言葉による指示を理解することができ、給食はセルフサービスであるが、生徒らは自分で盛付けができ介助は不要である等学校生活において身の回りのことは自分ですることができたこと、また牧子は、右生徒らを一年生の時からいわゆる持ち上がりで担当していたこと、課題別学習では、牧子は同組の生徒のうち明子ら三名を担当し、他の六名は山崎講師が担当し、右明子ら三名は、学習課題が比較的高い生徒であったこと、もっとも、生徒らが休憩時間等に次の授業のために別の教室に移るときは、牧子は右移動に付き添っており、また生徒らは給食後椅子に座ってボーッとしているだけなので、牧子は、余暇利用が積極的にできるように指導する趣旨でトランプ等をして生徒らと遊んでおり、ホームルームの時間は、生徒らが帰宅のため着替え等をする時間であるが、牧子はこの時間を利用して生徒九名の保護者との連絡帳を記載していたこと、そして、牧子は、高等部全体で音楽学習を行う学部音楽を担当していたが、体育は担当していなかったこと、作業学習は陶芸班、織物・縫製班、革工芸班、畑作業班、園芸班、しいたけ栽培班があり、牧子は、そのうち陶芸班を担当し、同班の生徒は、高等部一年生が二名、同二年生が一名、同三年生が五名であり、また必須クラブとしては、牧子は太鼓クラブを担当していたことが認められる。

3  その他の校務分掌

牧子は、昭和六一年度に、前記のように校務分掌上の進路指導部の教諭とともに、四組の生徒九名の進路指導に当たり、また研究部の部長を勤めていたところ、弁論の全趣旨により原本の存在及びその成立が認められる甲第四八号証及び証人若山の証言によれば、研究部は、その年の研究テーマを決定し、さらに研究単位を決定するが、いずれも意見の調整は簡単でなく、このような意見調整に当たる部長は精神的に負担となる仕事であり、研究会は一か月に二回位行われ、牧子は会の計画立案及び司会を担当し、レジュメもしばしば作成しており、研究部は校務分掌の中でも仕事量が多い方であったことが認められる。

成立に争いがない甲第四三号証、証人若山の証言によれば、本件養護学校には校朝会委員会があり、同委員会は、部長、副部長、委員六名からなり、その活動は、ほぼ毎週、月曜日に全児童及び生徒による朝会を開催し、音楽的学習をさせることであって、牧子は右委員の一人であったこと、なお、校務分掌については、教諭や講師ら間の話し合いで、各人が平等に分担する方針で決められていたことが認められる。

4  時間外公務

原告本人尋問の結果により真正に成立したと認められる甲第四二号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第七九号証の一ないし一〇、一八、二〇、二六並びに原告本人尋問の結果によれば、牧子は、一か月に二、三回の割合で、帰宅後学級通信を作成しており、昭和六一年九月には、同月一七日付け及び同月二九日付けの学級通信を作成したことが、また、成立に争いのない甲第七七号証、証人若山及び同多田の各証言並びに原告本人尋問の結果によれば、牧子は、自宅で午後九時ころから生徒の父兄等からの電話相談に応じることも少なくなかったこと、及び学期末には帰宅後も通知表を作成することがあったことが、それぞれ認められる。

三  本件災害三か月前からの牧子の勤務状況

1  昭和六一年度の夏休みについて

前記のように昭和六一年度の本件養護学校における夏季休業日は七月二五日から八月三一日までで、また同年七月二一日から同月二四日までは臨時休業日であったところ、前掲甲第四二号証、原本の存在及び成立に争いのない甲第三九号証、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第五六号証、第七八号証、第七九号証の一二、証人水田の証言、原告本人尋問の結果によれば、牧子は、右夏休み中八日出勤し、その他に生徒の実習先等に五日出張したが、その他の日は出勤しておらず、なお公務ではないが、同年七月二五日に自宅に生徒らを宿泊させ、翌日生徒らをボーリングに連れて行き、同月二七日に本件養護学校のPTAが催した夏祭りに参加し、同年八月一七日に明子が水泳大会に参加した際、他の生徒らと応援に赴いたことが認められる。

2  夏休み後の勤務状況

前掲甲第三九号証、第四二号証、第四七号証、第五六号証、成立に争いがない乙第一二号証の一、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第五三及び第五五号証によれば、牧子は、夏休み後、修学旅行に先立ち、しおりや生徒の事前学習のための資料を作成したが、修学旅行までに超過勤務をしたことはなかったことが認められる。

3  修学旅行

(一) 前記のように、牧子は昭和六一年九月一〇日から同月一三日まで本件養護学校の修学旅行に参加したところ、前掲甲第四七、第五三及び第五五号証、乙第一二号証の一、原本の存在及び成立に争いがない甲第五四号証、成立に争いがない乙第一四号証の一、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第五七号証、第七一号証の一ないし四、証人若山、同多田及び同水田の各証言によれば、次のとおり認められる。

右修学旅行の日程は、右九月一〇日の午前九時一〇分に東所沢駅に集合し、同九時三三分に同駅を出発し、途中東北新幹線等を利用して午後四時に宿舎に到着し、午後九時に就寝し、同月一一日は、午前七時に起床し、当日は主としてマイクロバスを利用し、午前一〇時に宿舎を出発して松島海岸等に赴き、午後四時に宿舎に到着して、午後九時に就寝し、同月一二日も、午前七時に起床し、主としてマイクロバスを利用し、午前一〇時に宿舎を出発して八木山ベニーランド等に赴き、午後四時に宿舎に到着して、午後九時に就寝し、同月一三日は、午前七時に起床し、午前一〇時に旅館を出発し、仙台駅ビル内で買物をした等の後、午前一一時五四分に同駅を出発し、東北新幹線等を利用し、午後二時五〇分に東所沢駅に到着し、午後三時に解散することとされていた。

修学旅行の引率教員は五名で、うち女性は牧子を含め三名であり、生徒は男子六名、女子七名合計一三名であった。埼玉県立の特殊教育諸学校高等部における引率教員数は、埼玉県の教育長通達(昭和五四年三月一四日教指第二五五六号)により、引率責任者及び保健責任者を別枠とし、生徒五人程度に対し一人とされている。なお、引率責任者は、当初校長の予定であったが、修学旅行の直前に病気になったので、若山教諭が引率責任者になった。もっとも、引率責任者としては、全体を掌握する外には具体的な仕事は特になかった。牧子は、修学旅行の立案等に関与していたことから、実質的に全体の掌握に当たったが、修学旅行の引率は三回目で、その行先はいずれも今回と同じであり、また牧子は大学時代も仙台で過ごし、修学旅行の目的地の地理には通じていた。

修学旅行においては、女子生徒のうち一名が重度障害児であったので、女性職員一人が右生徒につきっきりで介護に当たり、牧子と養護教諭の二人が残りの女子生徒六名を担当し、旅行においては、一日目に海岸で散歩をしたときに、海に入ろうとする生徒を呼び戻したり、足の不自由な生徒が海岸の砂の上では不安定なことがあって、その介護が必要であったが、その他は最後まで順調に日程どおり実施できた。もっとも、牧子と他の一名の女性教諭は、女子生徒のうち一名を毎晩午前〇時又は午前二時ころ、及び午前四時ころの二回手洗いに連れていかなければならず、その際排泄に時間がかかり、また旅行二日目には、右生徒が手洗いに起こす前に失禁してしまったので、汚れたシーツ等の洗濯をしなければならなかった。また、教諭らは、毎日午後一〇時ころから約一時間簡単な反省会を開き、その後、牧子は、生徒の保護者に旅行の様子を伝えるため毎晩修学旅行速報を作成し、朝は早起きの生徒が午前五時ころに起きてしまうと、牧子も起床していた。

(二) なお、前掲甲第四七号証によれば、牧子は、修学旅行のために仮日程の作成や下見をし、交通公社との打ち合わせを行ったというのであるが、これらの事柄は修学旅行の相当以前になされる準備行為であるから、牧子も、修学旅行の相当前にこれらの行為を行ったものと推定される。

4  修学旅行後の勤務状況

(一) 前掲甲第三九、第四二、第五六号証、乙第一二号証の一、並びに原告本人尋問の結果によれば、修学旅行の最終日の翌日である九月一四日は日曜日、一五日は祭日であり、同月二一日は日曜日、同月二三日は祭日で、これらの日は、牧子は勤務していないこと、なお右一五日は父親の墓参に行き、右二一日には、午前一〇時ころから午後二時ころまで近所の葬儀の手伝いをしたことが認められる。

(二) 前掲甲第四二及び第五六号証、乙第一二号証の一、証人若山の証言により真正に成立したと認められる甲第四九号証の一、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第四九号証の二、及び証人若山の証言によれば、牧子が担当していた高等部四組の生徒は、六名が就職を、二名が通所作業所を、一名が通所更生施設を希望しており、牧子は、昭和六一年九月に入り、生徒の実習先を捜すため会社等に電話をかける回数が増え、同年九月一九日午後二時から進路指導の関係で市役所に出張し、同月二六日は実習先の大沼ダンボールに出張したこと、施設入所についても、生徒の親の参考に供するため資料を整え、帰宅後も右親と電話によって連絡することがあったこと、なお、生徒の就職は、毎年一〇月から一一月の実習によって決定されていたことが認められる。

5  運動会の指導

前記のように運動会の練習が九月二二日ころから始まり、牧子は高等部のリレー、男子組体操、女子創作ダンス、障害物競争の練習に参加し、指導したところ、前掲甲第五三号証、乙第一二号証の一、証人若山の証言により原本の存在及び真正に成立したと認められる甲第五八号証によれば、運動会の練習は通常の勤務時間において行われ、その内容は、学校の運動会の練習として通常行われる程度のものであったことが認められる。

6  本件災害前一週間の勤務状況について

前掲甲第三九号証、甲第五八号証、乙第一二号証の一、成立に争いがない乙第一九号証、弁論の全趣旨により原本の存在及び真正に成立したと認められる甲第六八号証、証人水田の証言並びに原告本人尋問の結果によれば、本件災害前一週間の牧子の勤務状況は次のとおりであると認められる。

九月二七日(土曜日) 午前中は、午前八時三〇分からホームルーム、マラソン、グループ学習の順に指導し、その後零時三〇分ころまで生徒の昼食の指導を行った。なお、牧子は、障害児の親が組織する民間の団体である「所沢市手をつなぐ親の会」に加入していたところ、同日午後五時ころまで、本件養護学校で、右会の創立記念の会で販売するための茶碗を作成していたが、これは公務に該当しない。

同月二八日(日曜日) 休日であり、時間外勤務も行っていない。もっとも、次女の運動会の応援に出向いた。

同月二九日(月曜日) 午前八時三〇分から、ホームルーム、マラソン、鼓笛の練習の順に指導し、午後は三時まで、ダンス指導、クラス作業、ホームルームの指導をし、三時から五時一五分ころまで学部会に出席した。なお、牧子は、午後六時ころから九時ころまで所沢市内施設職員学習会に出席した。右学習会は、所沢市内にある特殊学級、入所施設、作業所、厚生施設、幼児の通園施設等の職員がケース研究を行うものであるが、私的な会合である。

同月三〇日(火曜日) 午前八時三〇分から、運動会の予行練習の指導をし、午後は三時まで、グループ学習、クラス作業、ホームルームの指導をした。その後、午後三時から三時一五分まで職員会議に出席し、午後三時三〇分以降は年次休暇を取得した。

一〇月一日(水曜日) 午前八時三〇分から、ホームルーム、マラソン、グループ学習の順に指導し、午後は二時三〇分まで、ダンスの練習、次いでホームルームを行い、生徒らは午後二時三〇分ころに下校した。牧子はその後、午後六時まで本件養護学校で運動会用のボンボン作りを行った。

同月二日(木曜日) 午前八時三〇分から、ホームルーム、マラソン、体育、のこぎりの練習の指導を順に行い、午後零時から午後一時ころまで進路指導のため市内に出張した。午後一時から、ダンスの練習、クラス作業、ホームルームを行い、生徒らは午後三時に下校した。牧子は、午後三時ころから午後五時一五分まで全校朝会委員会に出席した後、帰宅した。なお、帰宅後、自宅で本件養護学校の教員の有志と二時間教材研究をしたが、これは公務ではなかった。

7  牧子の家庭生活

前掲甲第六八号証、乙第一九号証、並びに原告本人尋問の結果によれば、牧子の家庭は、夫、子供二人及び牧子の母親の五人家族であり、食事作りや洗濯等の家事は大体母親が行い、家事については、牧子は洗濯物を畳んだり、食器洗い等をする程度であったこと、また、牧子は、通常、午前七時ころに起床して、午前八時ころ出勤し、通常午後五時三〇分から六時ころに帰宅し、一週間に一、二回は帰宅が午後九時あるいは一〇時になることがあったが、その理由は、所沢市手をつなぐ親の会や所沢市内施設職員学習会等に参加していたためであったことが認められる。

8(一)  そこで、前記のような夏休み及び二学期開始後の状況によれば、牧子は夏休みが終わった時点で公務のため疲労していたということはできず、また二学期開始後も超過勤務はなかったのであって、その勤務期間及び勤務内容によれば、牧子が修学旅行前に過度の勤務をしていたと認めることはできない。

(二)  修学旅行における前記のような日程によれば、修学旅行の日程は、生徒らが障害者であることを考慮した無理のないものであったということができ、そこで、牧子が世話を担当した生徒数やその生徒らの状況、及び旅行が予定どおり順調に終了したこと、また牧子は修学旅行の引率は三回目で、その行先はいずれも今回と同じであって、目的地の地理に通じていたことに照らすと、牧子が修学旅行において実質的に全体の掌握に当たったとしても、日中における生徒の引率において牧子の負担が特段過重であったということはできない。

もっとも、牧子は、他の女子教諭一名とともに毎日深夜に二回、女子生徒の一名を起こして手洗いに連れて行かなければならず、旅行二日目には同生徒が手洗いに起こす前に失禁してしまい、そのため汚れたシーツ等の洗濯をし、また毎晩午後一一時ころまで反省会を開いた後、生徒の保護者に旅行の様子を伝えるために修学旅行速報を作成し、朝は午前五時ころに早起きの生徒が起きると、牧子も起床していたのであるから、牧子は、修学旅行中に相当の睡眠不足となっており、そして、証人多田の証言によれば、昭和六一年九月中旬ころ、牧子は度々保健室に来所し、「夜あまり眠れない。目を閉じると赤や黄色の雨が矢のように刺さってくる」と言っていたことからすれば、牧子には修学旅行による疲労があったものと認められる。

しかしながら、修学旅行の最終日の翌日である九月一四日は日曜日、一五日は祭日で、連休であり、同月一六日から二〇日までの勤務においても牧子に特別の勤務や超過勤務があったとは認められず、通常の勤務時間及び勤務内容であったこと、同月二一日は日曜日、同月二三日は祭日であり、牧子がこれらの日は勤務していないこと、この間同月一七日付けの学級通信を作成した以外は帰宅後も自宅で職務にかかる仕事をしたとは認められないことに照らすと、牧子は、同月一五日に父親の墓参に行き、同月二一日には近所の葬儀の手伝いをしたとしても、遅くとも同月二三日ころには、修学旅行の疲労から回復したものと推定される。

(三)  同年九月二二日ころから始まった運動会の練習は、通常の勤務時間内に行われ、牧子は高等部のリレー、男子組体操、女子創作ダンス、障害物競争の練習に参加し指導したが、その内容は学校の運動会の練習として通常行われる程度のものであったから、これによって牧子に過度の疲労が生じたということはできない。

また、牧子は、同年九月に入り、生徒の実習先を捜すため会社等に電話をかける回数が増え、同年九月一九日午後二時から進路指導の関係で市役所に出張し、同月二六日は実習先の大沼ダンボールに出張し、施設入所についても、生徒の親の参考に供するため資料を整え、帰宅後も右親と電話によって連絡することがあったけれども、牧子は昭和五六年ころから本件養護学校の高等部を担当しているのであって、その経験年数及び生徒の実習は例年一〇月から一一月に行われていたことに照らすと、進路指導のための牧子の右活動内容だけから直ちに牧子が生徒の進路指導のために精神的、肉体的に過度の疲労に陥っていたと認めることはできない。

(四)  本件災害前一週間の牧子の勤務状況は、九月二七日は土曜日で、零時三〇分ころに勤務は終了し、同月二八日は日曜日のため休日で、時間外勤務も行っておらず、同月二九日(月曜日)は、午後五時一五分ころに勤務は終了し、同月三〇日(火曜日)は、午後三時三〇分前まで勤務し、午後三時三〇分以降は年次休暇を取得し、一〇月一日(水曜日)は、生徒らは午後二時三〇分ころに下校し、牧子は午後六時まで本件養護学校で運動会用のボンボン作りを行い、同月二日(木曜日)は、生徒らは午後三時に下校し、牧子は午後三時ころから午後五時一五分まで全校朝会委員会に出席した後帰宅し、勤務した日の始業時間はいずれも午前八時三〇分であり、右期間中九月二九日付けの学級通信を作成した以外は、帰宅後自宅で職務にかかる仕事をしていないのであり、また右期間中の出勤した時の前記のような勤務内容に照らすと、牧子の本件災害前一週間の勤務の内容及び程度が過重なものであったということはできない。

(五)  右認定に反する甲第五七号証、及び証人若山、同水田の各証言部分は、前記三3ないし7の事実に照らして採用することができない。

四  本件災害直前の状況について

1  前記争いのない事実2並びに前掲甲第五八及び第六八号証、乙第一九号証、証人水田の証言により原本の存在及び真正に成立したものと認められる甲第二九号証の一及び三、第三六号証、弁論の全趣旨により原本の存在及び真正に成立したものと認められる甲第二七号証、第三一号証の二、三、第三五号証、第三六号証、第六四号証、第六五号証、現場の写真であることは争いがなく、その余の部分は弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第六九号証、原告本人尋問の結果により原本の存在及び真正に成立したものと認められる甲第六六号証、及び証人若山、同甲野明子及び同水田の各証言(ただし、証人水田の証言中左記認定に反する部分は採用することができない。)、並びに検証の結果を合わせれば、以下の事実が認められる。

(一) 牧子は、本件災害当日午前七時ころ起床し、通常どおり出勤して、午前八時三〇分ころから職員朝会、学部打ち合わせ会に出席した後、教室で生徒の掌握にあたり、家庭からの連絡等に目を通し、その日の教材準備をした。この間、牧子に普段と変わった様子はなかった。午前九時二〇分ころから、山崎講師が、高等部四組の生徒全員を本件養護学校の校門に集合させて準備体操をさせていたが、この間牧子は教材準備を行っており、準備体操の途中から生徒の指導に加わった。当日の天気は曇りで、気温は同日午前九時から一〇時の間は二〇度前後であった。当日朝に牧子と山崎講師は、校外でマラソンを行うことを決定し、そしてマラソンコースについては、本件霊園内をゆっくり廻るという程度の打ち合わせをしたにすぎず、役割分担も決めなかった。

(二) 牧子は、午前九時二五分ころ、山崎講師に対し、先に出発するから、三本目の電柱を過ぎたら出発するように言って、下肢障害があり速く走ることができない明子とともにほとんど歩くような速度で前記校門から出発した。山崎講師は、生徒らと一緒に走れば良いと考え、マラソンコースの説明をせずに約五分後に残りの生徒八名と出発し、右校門から約三〇〇メートル進行した本件霊園に向かう道路上で、牧子と明子を追い越した。その頃には、山崎講師及びジョギング程度に走ることができる生徒三名と、早歩き程度にしか走れない生徒五名との二グループに分かれ、両グループの差は徐々に広がり始めていた。そこで牧子は、明子に対し、「皆が心配だから、先に行くからあっこはゆっくりおいで。何回転ぶか教えてね。」と言って、小走りで走り出したが、牧子には慌てた感じはなかった。右追越した地点から約一〇〇メートル前方に本件霊園の入口があり、先行及び後行のグループとも同所から本件霊園に入り、牧子及びその後方から来ていた明子も同所から本件霊園に入った。牧子は、右入口から西南西方向の道路を進行し、前記の山崎講師らが牧子を追い越した地点から約四四〇メートル進行した場所で、同日午前九時三五分ころ、急性心不全を発症して倒れた。山崎講師は、本件霊園入口から右西南西方向の道路を進行し、右牧子が倒れた場所より約一〇〇メートル手前の十字路で本件養護学校の方向に向かうために左折して進んだが、後方グループの姿が見えないので、二〇〇メートル位進んでからその生徒らを捜すために引き返し、右十字路付近に戻った時に進行してくる明子と出会った。本件霊園入口から西南西方向の道路の状況は、最初は少し上り坂で、次いで平坦となり、前記十字路の手前から下り道で、十字路から西南西へは少し上り坂となってから平坦となり、牧子が倒れていた付近は平坦であった。また、右西南西方向の道路は、途中ゆるやかに曲がっている箇所が数箇所あり、垣根がある等のため、見通しは良くない。なお、明子以外の生徒らは、この間に独力で帰校した。

2(一)  なお、牧子が右のように後行グループを追いかけ出してから急性心不全を発症して倒れるまでの間全速力で走ったと認めるに足りる証拠はない。

(二)  また、前掲甲第六九号証、及び証人若山の証言によれば、本件霊園の入口付近には、「入園者は歩行者安全のため最徐行運転を厳守して下さい」と記載した看板が設置されていることが認められる。

しかし、証人水田の証言によれば、同証人(山崎講師)は、当日は初めての校外マラソンであり、他のコースだと距離が長くなり、自動車が通ることになるので、校内のコースより短いコースと考え、本件マラソンコースに決定し、牧子も同じ考えであったと思うというのであり、また、同証人が、本件マラソン指導中に本件霊園内で自動車を見かけたとの証言をしていない。そこで、右事実と本件災害当日は金曜日で、時間も午前九時三〇分前後であったことに照らすと、本件マラソン指導当時、本件霊園内を通行する自動車は極めて少数であったと推定され、甲第六九号証の記載中、自動車が頻繁に出入りしているとの部分は採用することができない。

3  右1認定の事実に基づけば、牧子は、山崎講師の引率する生徒らに追い越された後、後行グループが遅れているのを見て不安を感じ、同グループの生徒らに追いつくために小走りで走り出し、ところが、本件霊園内の見通しは良くなく、牧子が前記十字路で帰校の方向である左折をせずに直進し、その倒れた場所は本件霊園入口から約三四〇メートルであることからすれば、牧子は、小走りで走り出してから、生徒らに追いつけず、そのため次第に不安感や焦慮感が生じたものと推定される。

五  牧子の基礎疾患及び死亡原因

前掲甲第六八号証、原本の存在及び成立につき争いがない甲第三七号証、第三八号証の一ないし三、第六二号証、乙第九号証、成立につき争いがない乙第一一号証、第一二号証の三ないし六、第一七号証、証人佐々木の証言により真正に成立したと認められる乙第一六号証、証人岡田、同佐々木、同肥田、同多田の各証言、原告本人尋問の結果、並びに鑑定の結果を合わせると、次の事実が認められ、甲第七四号証の記載中左記認定に反する部分は、採用することができない。

1  牧子は昭和五一年七月二三日から動悸や立ちくらみを主訴として埼玉西協同病院に通院を始め、当時の心電図によれば心室性期外収縮であった。しかし、聴診上心音は正常で、その負荷心電図によっても、心室性期外収縮は運動に影響されるようなものではなかった。牧子は、その後も不整脈のため同病院に通院を繰り返したが、昭和五五年二月二〇日から昭和五六年一二月二七日まで、昭和五七年六月から昭和五八年二月まで、同年六月から同年一〇月まで、昭和五九年八月から同年一一月まで、昭和六〇年六月から同年一一月までは通院していない。

昭和五八年六月四日、牧子は、ハートコーダーを装着するために防衛医大に赴いたところ、帰宅後午後六時ころから動悸が打ち始め、午後九時ころ動悸が激しくなったので、同医大の救急外来に赴いた。この時の心電図によれば、右心室側起源の心室性期外収縮が頻発しており、その波形は後記昭和六〇年二月のものと同一であるので、既に虚血性心疾患を発症していたものと推定される。また二段脈であったが、二段脈は軽いほうから二番目位であって、直ちに生命に危険があるほどの重い不整脈ではなかった。担当医は心室性期外収縮の治療薬としてリドカイン五〇ミリグラムを静注したところ、その副作用として牧子の意識が低下した。しかし、二分後に再び意識清明となったが、経過観察のため入院し、同年同月七日に退院した。右のような心室性期外収縮及び二段脈の程度は、日常生活上で仕事の制限を要するものではなかった。

昭和六〇年二月一日の埼玉西協同病院におけるWマスターの前後の心電図によれば、右冠状動脈潅流域に虚血を発症し、狭心症であった。ただし、負荷及びその直後に不整脈はほとんど観察されていない。昭和六〇年一一月以後は、同病院に二、三週間に一回通院し、その都度頻脈の抑制あるいはその予防のためβ遮断薬であるインデラルの投与を受けた。

昭和六一年八月一九日の所沢市市民医療センターにおける検査では、絞扼感(喉)、安静時呼吸困難、動悸、前胸部痛、不整脈、上腹部不快感、肩・首のこわばり等があり、これらは狭心症に一致する症状であるところ、狭心症の原因は冠状動脈スパズムであって、牧子は冠攣縮性狭心症であり、しかもこの頃には冠状動脈スパズムは重い状態であった。ちなみに、大動脈炎症症候群や川崎病は、その症候がないので否定され、また、牧子は本件災害当時三八歳で、右医療センターにおける右検査では、コレステロール値は一デシリットル当たり一五二ミリグラムであって、正常範囲内であり、昭和四九年以来血圧は正常ないし低めで、体重も著明な変動はないから、冠状動脈硬化も否定される。

昭和六一年九月一九日に埼玉西協同病院へ赴いたのが最後の通院であり、その際もインデラルを処方された。

2  冠攣縮性狭心症の特徴的病態は、血管の易スパズム性にあり、冠状動脈のトーヌス(壁の緊張度)は夜間から早朝にかけて上昇してスパズムが起こりやすくなり、発作は早朝には軽度の労作によっても誘発されるが、日中は相当の労作によっても誘発されなくなるといわれている。すなわち早朝には副交感神経が亢進しているので、これに加え目覚めにより交感神経が緊張するとα受容体が刺激されてスパズムが出現し、午後になると逆に交感神経β受容体作用が強く出て、冠状動脈トーヌスが緩んでスパズムは起こらなくなる。そして、スパズムの発生は気まぐれであり、必ずしも労作で誘発されない。

他方において、ストレスに伴い、心臓交感神経末端からノルエピネフリンが分泌され、副腎からのエビネフリン・ノルエピネフリンの分泌が上乗せされると、冠状動脈のα受容体が刺激されて、スパズムが誘発され、同時にこれら活性物質による直接刺激と虚血の両者に曝された心筋の一部が壊死に陥って不整脈源をつくると考えられる。

3  牧子は、前記のように負荷及びその直後には不整脈はほとんど観察されておらず、また一、二か月に一回家族旅行をし、昭和六一年八月中旬には福島県に姉と二泊する山登りをし、同年同月二五日と二六日に家族で尾瀬に一泊旅行をしているが、このような旅行や山登りのときは、動悸もスパズムも出現しておらず、心室性期外収縮の程度は仕事の制限を要するものではなく、他方牧子は仕事で遅れたり、睡眠不足が続いたときに動悸がすると訴えていたので、精神的にかなりのストレスが加わったときに動悸の症状が出現したものと推定される。

4  本件災害が発生したのは、午前九時三〇分過ぎであるところ、右時刻ころは、スパズムの閾値を下げ、いわばスパズムの好発時間帯に属し、また、牧子にはβ受容体の働きをブロックするインデラルが投与されており、そのためβ遮断薬服用による易スパズム性が潜在していたので、発作の原因となる運動強度はそれ程強い必要はなく、むしろ精神的なストレスがスパズムを起こすきっかけになったのではないかと推定される。もっとも、本件災害当日以前に精神的ストレスが存したとしても、右ストレスと本件災害当日におけるスパズムの発生との因果関係の有無を医学的に判定することは困難である。

そして、牧子が防衛医大に搬送された後に、直流除細動により正常洞調律に復していることからすれば、牧子には、スパズムが発生した後、T波のところに心室性期外収縮が生じたためRonT現象が発生し、その結果心室頻脈・細動を生じたものと推定される。なお、何故T波のところに心室性期外収縮が生じたかは、医学的に不明である。

六  牧子の死亡原因と公務起因性の存否について

1  地方公務員災害補償法にいう公務上の死亡とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、右負傷又は疾病と公務との間に相当因果関係が存すること、すなわち、死亡が公務の遂行に起因することが必要である。そして、当該職員に基礎的疾病があり、これが勤務に基づいて増悪して死亡した場合において、公務と死亡との間に相当因果関係が存在するといい得るためには、勤務に起因する過度の肉体的、精神的負担が基礎的疾患の自然的経過を超えてこれを急激に増悪させ、その結果発症に至るなど、勤務が右増悪につき最も有力な原因である必要はないが、相対的に有力な原因であることが必要である。

2 前記一ないし五のとおり、牧子は冠攣縮性狭心症であり、その原因である冠状動脈スパズムは昭和六一年八月一九日ころには重い状態であったものであるが、スパズムは必ずしも労作によって発症するとは限らず、また心室性期外収縮は、日常生活において仕事の制限を要する程のものではなかった。他方、同年の牧子の夏休から本件災害前日までの勤務内容は過重なものとはいえず、なおその間修学旅行中に疲労が生じたけれども、その後休日があり、休日後の勤務も通常の勤務であって、修学旅行による疲労もその後回復したものと認められるから、本件災害前日までに公務のため牧子に過度の負担があったということはできない。そして、牧子が昭和六一年八月に山登り及び尾瀬に旅行をしても動悸や本人が自覚するようなスパズムは発生しておらず、修学旅行中及びその直後の疲労状態によってもこれらの発生をみていないところ、本件災害当日の本件マラソン中に牧子が後行グループを追いかけて走り出した時も小走りであり、本件災害が発生するまでに走った距離も約四四〇メートルで、その間ほぼ平坦地であるから、このような運動が山登りに比較すると肉体的負荷が極めて少ないことは明らかであって、前記五のとおりスパズムが右のような駆け出し及び走行に起因するとは認められないのであり、すなわち、右駆け出し及び走行とスパズムの発生との間に相当因果関係を認めることはできない。

3  次に、冠攣縮性狭心症の特徴的病態は、血管の易スパズム性にあるところ、前記三の勤務内容に照らすと、本件災害当日以前の牧子の勤務が、本件養護学校における教員の勤務として、勤務そのものに基づき過度の精神的ストレスが発生するようなものであったといえないばかりでなく、前記四のとおり医学的に本件災害当日以前の精神的ストレスと本件災害当日におけるスパズムの発生との因果関係を肯定することはできない。

4  もっとも、本件災害時におけるスパズムの発生のきっかけとして、牧子に精神的にストレスが生じたことが推定されるところ、牧子は前記のように後行グループを追いかけて駆け出したが、生徒らに追いつけず、そのため次第に不安感や焦慮感が生じたと推定される。

しかしながら、牧子は本件マラソンに参加していた生徒らを一年生の時から担任しており、右生徒らの障害の程度は重度ではなく、本件マラソン時において後行グループの生徒らは早歩き程度にしか走れず、牧子が右生徒らを追いかけだした時の距離も一〇〇メートル位であり、本件霊園をマラソンコースに選んだのも生徒らの安全を考慮した結果でもあり、明子以外の生徒らは結局独力で帰校しており、本件霊園内を走行する自動車も極めて少数であったと推定され、また牧子が後行グループの生徒らを追いかけだしてから本件災害の発生までは約四四〇メートルを走る程度の短時間であったのであるから、これら事実に照らすと、牧子の不安感や焦慮感の原因となった出来事は生徒らに具体的危険が急迫した異常な事件であるとまでいうことはできない。それ故、牧子に過度の精神的負荷が加わるような原因が存在したとはいえないのであり、牧子には冠攣縮性狭心症が存在しており、その原因である冠状動脈スパズムは昭和六一年八月一九日ころには既に重い状態であって、本件災害が発生した時刻ころはスパズムの閾値を下げ、いわばスパズムの好発時間帯に属し、またβ遮断薬服用による易スパズム性が潜在していたのであるから、牧子のこのような基礎的疾患が本件災害時におけるスパズム発生の主たる原因であったというべきであって、牧子の右のような不安感や焦慮感の原因が究極的にスパズム発生の相対的に有力な原因であったと認めることはできない。

5  したがって、本件災害は公務に起因するものとは認められないから、これを公務外であるとした被告の本件処分に違法はない。

七  よって、原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却することとする。

(裁判長裁判官大喜多啓光 裁判官髙橋祥子 裁判官岡口基一)

別紙<省略>

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